Sunday, Monday, Tuesday, Wednesday, Thursday, Friday, Saturday, 12-03-2007
常々,「がんばらないと」と思う.実は僕は「がんばる」と言う言葉が好き.他人に「がんばれ!」とは言わないけどね.でもがんばるだけでは誰も褒めてくれない.結果を出さないといけない.
今は授業を教えていないので,過去の話.大学で授業を教えている(あるいはTAをしている)と,すごくがんばっているんだけどテストの点が悪い生徒というのがよくいる.逆に授業にも出てこないのにテストの点はいい,という生徒もいる.
僕が良い成績をつけるのは後者の方.いくらがんばっても結果を出さなくてはだめだ.ほとんど勉強しなくて50点の生徒と,すごくがんばって50点の生徒,どちらも落第だ.がんばること自体が評価されるのは高校生までかな."I did my best." という大学生(大人)への返答は "Your best wasn't good enough." だ.そんなこと面と向かって言わないけどね.友達なくすよ・・・
今の僕も,いくらがんばって研究をしてもそれだけでは何にもならない.『1年間がんばったけど論文を書くには至らなかった』 と 『1年間遊んでいた』,価値はいっしょだ.結果のない努力は,努力しないのと同じ.
でも,そこで問題になるのが,何をもって結果とするか,だ.『論文にはならなかったけど知識は増えた』 たぶんそれもちゃんとした結果だ.だからその1年間の努力はやっぱり遊んでいたのとは違う.テストで点が悪くてもがんばったことの成果は何かしらあると思う.ただそれを評価するのは難しい.多くの場合,本人にしかできない.「がんばった成果で精神的に強くなった」とかね.精神的に強くなるって何?
院生時代,がんばって勉強したけど出来が悪かったテストというのが(数多く)あった.「もっとがんばれたんじゃないか?」と思う.でもそう思った矢先,「精一杯がんばった.あれが限界だった」と思う.でもやっぱり「限界はもうちょっと先だったかも」と思う.要するに結果が明確な形になっていないと評価が曖昧になる.
僕は常々,がんばった結果を認識することにしている.目に見えないものでも,自分でちゃんと認識して目に見える,言葉で表せるものにする.その結果かどうか判らないけれど,たぶん僕は自分にかなり甘いと思う.本当は,本当に結果のない努力だったにも関わらず,勘違いで,言葉に出来る結果があったような気になってしまっている.
今,研究でちょっと方向転換を試みているのだけど,これが結果(論文)となるのはたぶん2年後だ.ならない可能性も大.積極的に自分で好意的にがんばりを評価しないと続かないな.
ところで,子供が相手の場合は全く別だ.努力しても結果が伴わなかった場合,子供は「無駄な努力をした.努力なんてしない方が良かった」と思いがちだと思う.目に見えない結果を目に見えるようにする,などという技はまだ身につけていてほしくない.だから周りで,「努力すること自体に意味があるんだよ」と教えてあげることが大切だ.
ちなみに個人的に「努力より結果が大切」と認識したのを大人になった証拠としている.あと,みたらし団子よりあんこの団子,しかもこしあんよりつぶあんの方が好きになったのも大人になった証拠だ.
コメント
大学時代は、遊んでても結果(国家試験)はでました。修士時代から今までは、まさに結果がものを言いました。ない結果がものをブツブツ言い出したんです。結果の大切さが大変身にしみてきました。そして、上記を読んで、大変同意になりました。「結果なしの努力」はすばらしいタイトルです。「結果ありの努力なし」はもっと怖いというのも感じてきています。
それはそれでいいです.
今までの目に見えない苦労がやっと報われた,とか,努力なしの部分はどうにでもなるので.