Sunday, Monday, Tuesday, Wednesday, Thursday, Friday, Saturday, 03-14-2011
地震が起きたとき、台北の少し北(つまり台湾の北の端)の淡水にある淡江大学にいた。後で知ったのだけど、その日(金曜日)、午後の授業はなくなり学生は帰宅した。学会は何事もなかったように続いた。
インターネットのニュースで見たけれど、最初に見たとき地震はトップニュースではなかった。見出しには出ていたけれど2番目。その後、少しずつ状況が明らかになるにつれて事態の深刻さが判明していった。しかし、死者、行方不明者の数は確認された数の発表だったので、最初は合わせて数十人ということだった。この頃、とりあえずメールで日本の家族の無事を確認。
学会終了後、ホテルの部屋に戻ってからインターネットでさらに情報を集めた。津波の映像もこの時初めて見た。
次の日、学会会場でいろんな人から「家族はだいじょうぶか?」と訊かれた。
この日最初のスピーカーの John Crowley さんが、発表の前に「今回の地震の被害者の・・・」と涙ぐんでいたのが印象的だった。
台湾での予定(木曜日の深夜→月曜日の早朝)を終え、月曜日にナッシュビルに向かった。土曜日まで成田空港は大混乱だったようで、僕が乗る予定だったシカゴ行きの便もキャンセルされた。日曜日にはかなり通常運行に戻っていたようだけど、台北からの便は数時間遅れたようだ。
結局、台北から遅れることなく成田に着いた。ここで4時間ほど時間があったので、一度入国した。成田空港は、首都圏の電車がほぼ動いていないことを受けて、やや混乱していた。一日だけ日本に滞在して藤枝に帰郷する予定もあったけれど、とてもそれは無理だっただろう。
聞いた話によると、成田空港は自家発電が可能らしい。動いていない動く歩道があったけれど、節電の一環だったのだろうか?
アメリカン航空の機体に不備があって、出発が40分ほど遅れた。3日前から地震による影響でスケジュールが乱れることを懸念していたのに、機体の不備だ。
アメリカ時間の月曜日の夜、ナッシュビルの自宅に着いた。
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